「Apple Vision Pro」に渦巻く懐疑論--「空間コンピュータ」は何を変えるのか?

6月5日から開催されたアップルの開発者向け会議「WWDC 2023」で発表されたApple Vision Pro(以下、Vision Pro)は”空間コンピュータ”という新しいコンセプトを掲げて大きな話題になったが、一方で懐疑的な意見が多いのも事実だ。

しかし米国時間の6月21日、アップルは開発ツールXcode 15のベータ版を更新。開発者向けにVision Proの基本ソフトであるVision OSの開発キットとシミュレータの配布を始めた。実際に”空間を自由に動き操る”ことはできないものの、今後は新たなレビューや開発者視点でのアイディアが登場するだろう。この機会に改めてVision Proについてのコラムを書き進めたい。

日本メディアでVision Proを体験したのは7人のみ

Vision Proは従来製品に類似する世界観を持つ製品がなく、スマートフォンやタブレットを含む既存のパーソナルコンピュータやVRゴーグルとどのように違うのか、その違いを明確に感じるには、技術的な詳細や開発者向けの情報を十分に理解した上で将来の計画について想起するか、あるいは実際に体験してアップルが目指しているビジョンを共有するほかない。

ところが、2024年の発売が予定されているこの製品を実際に体験できたのは、WWDCに参加した中でもごく一部だけ。一人がデモルームを占有して30分ずつ体験するという形式のため、日本人メディアで体験できたのはわずか7人だけだった。

いくらアップルが素晴らしいデモビデオとウェブサイトで訴求し、(筆者を含め)メディアが新しい体験について語ろうとしても、そこには自然と限界がある。

筆者自身、自分で体験する前の段階、すなわちWWDC 2023の基調講演を会場で観た直後は、素晴らしい品質を認めつつも”ここまで特別なもの”だとは思っていなかった。

数多くある”普及するはずがない”理由

Vision Proに対して疑問を感じるのも当然だ。

日本円でおよそ49万円と高額な上、視度を補正するためには300〜600ドル程度になると言われるツァイス製補正レンズを作成せねばならない。詳細なハードウェアの構成は未発表だが、同じ能力のプロセッサを搭載するMacBook Airなどと比較すると、30万円以上に高価な製品だ。

さらに過去を振り返るなら、長時間の装着でユーザーへの負担を強いる電子デバイスが普及した事例は、筆者が知る限りにおいてはない。本来比較するものではないが、筆者が毎日お世話になっている何の変哲もないメガネでさえ、できることなら外して1日を過ごせたら快適に違いない。

これらを考えれば、懐疑的な意見が出てくるのは当然だろう。そして最も多く受けるのが「Vision Proでは何ができるの?」という質問だ。

ご存知の通り、Vision Proには最新のMacBook Airなどと同じようにApple M2という高性能なプロセッサが搭載され、パソコンとしても秀逸な性能をもっており、パーソナルコンピュータとしての能力に疑いはない。

Vision Proに搭載される基本ソフトのVision OSは、iOS、iPadOS、macOSと共通の技術基盤の上に構築されており、iOS、iPadOSのアプリケーションは(Vision OS向けのリリースチェックをするだけで)そのまま動作する。

また初期に導入されているアプリケーションは、いずれも機能的には従来のコンピュータやスマートフォンに類似しており、どんな新しい使い方ができるのか?との問いに、即座に賢い答えは思いつかない。

立体的な表現力を持つグラフィックスや音響の再現能力が高く、視線と手のジェスチャーで動かせる画期的なユーザーインターフェイスなど、数えきれないほどの”体験の質の違い”は挙げられるが、利便性という観点で”何か新しいこと”ができるわけではない。

正確にいうならば、”今のところは”なのだが、うまく伝えるためには”ライバルのようでいてライバルではない”、Metaの製品との方向性の違いを考察してみるといい。

Meta Questとは何が違うのか?

今年秋に発売される「Meta Quest 3」は、Vision Proの発表直前に急遽アナウンスされた。おそらくアップルのMRデバイス発表が確実とみて、その先手を打ってきたのだろう。

Quest 3は大ヒットとなったQuest 2を大幅に改良した製品で、おそらくは過去最高の売り上げを記録することだろう。描画性能を2倍に強化した上で、主に企業向けとして発売したQuest Proと同様のMR機能を実現するため、前面にステレオカメラと深度センサを採用している。

これまでのVR端末の領域から踏み出して、Mixed Reality (複合現実)に向けて大きく踏み出そうとしており、MRデバイスという視点ではVision Proと同じジャンルとなる。しかも価格は7万4800円からと圧倒的に安価だ。

Quest Proに内蔵されている視線トラッキングや表情を捉えるカメラセンサーなどを省略しているものの、薄型化を実現するパンケーキレンズなどの技術を応用しており、装着性も大幅に上がるはずだ。

Metaは企業向けのQuest Pro、個人向けのQuest 3と、それぞれのニーズに機能や性能を吟味、選別することで価格を抑えつつ、価格に対する体験価値を最大化しようとしているわけだ。こうしたやり方も、これまでにない新しい市場を立ち上げていくための、一つの手法だとは思う。

もしゲーム体験や映像コンテンツを楽しむだけならば、Quest 3は優れたコストパフォーマンスを発揮してくれるはずだ。それはパソコン黎明期の時代にあっては、ゲーム専用機の方が費用対効果に優れていたことにも似ている。
Quest 3はコンテンツドリブンの製品であり、それこそが強みでもある。

一方でアップルが目指しているのは、新しいコンピュータのジャンルだ。

Vision Proが目指す、人間とコンピュータの新しい関係

コンピュータの歴史を振り返ると、ユーザーとコンピュータの間をどのように結びつけ、操り、使いこなすのか。そのコンセプト、手法の違いが、新たな価値を切り拓いてきた。

パンチカードとプリンタの時代から、ディスプレイを通じて直接コンピュータを操れるようになり、1台のコンピュータを1人で占有できる”パーソナルコンピュータ”の時代になると、個人とコンピュータをグラフィクス表示を用いて”机の上にある道具”を模したGUIを採用するゼロックスのStarという文書作成コンピュータを生み出した。

GUIを一般ユーザーが汎用的に使いこなせる領域にまで洗練させたMacintosh、指を使ったマルチタッチの操作はiPhone、さらにiPadを生み出した。

現在、iPhoneをはじめとするスマートフォンが、世界中の人たちに普及し、市場、製品ともに成熟してきた中、アップルが”人間とコンピュータの新しい関係”を築こうとしているのがVision Proだ。

Macが生まれた頃はMS-DOSでワープロと表計算を動かす方が効率よく、また安価あった。iPhoneが登場した際には「電話機として使いにくい携帯電話など論外」と切り捨てる意見を目にした記憶もある。

VRコンテンツ、アプリケーションという意味では、先達のOculus LiftからQuestに続く製品の中で、いくつものVR/ARコンテンツが生まれてきており、それらと同様のコンテンツをVision Proで楽しむことはできるだろう。

しかし、Vision Pro(とVision OS)が目指しているのは、既存のアプリケーションを空間の中で再現することではない。空間に配置される情報、空間を操るユーザーインターフェイスで、新しい表現力やインタラクションの形を開発者に与えることだ。

ヘッドセットを装着して使用せねばならないストレスに関しては、最大限の配慮はされているものの、まだ完璧とは言えない。立体視の快適性などは過去に感じたことがないほど素晴らしいものだったが、それでもこの製品を装着して一日中過ごすことは、現時点では想像しにくい。

今後、継続的な改善が求められる領域が残っていることは確かだ。

しかし現時点での技術的な制約を踏まえた上で、あらためて「空間コンピューターとは何なのか?」と改め て問われれば、「これは現代のMacである」と答えたい。非効率であったGUIは長い年月を経て世の中の標準となった。通話をするだけなら、ガラケーの方がシンプルだっただろう。