トランスジェンダーの“リアル”を描いた「last day of spring」は、その真摯な目線ゆえに共感を呼ぶ:ゲームレヴュー

ヴィジュアルノヴェル「last day of spring」は、トランスジェンダーである主人公が社会の「常識」と闘いながら、安らげる居場所を探していくストーリーのゲームだ。トランスジェンダーへの深い理解を下敷きに描かれた主人公の葛藤やフラストレーションは“リアル”で共感を呼ぶ。そして社会で疎外感を感じている人々に対して、「あなたは確かに存在している」と告げる鏡のような役割を果たしてくれる──。自身もトランスジェンダーである『WIRED』US版のライターによるレヴュー。

トランスジェンダーとして生きていると、まるで自分がこの世に存在していないかのような感情に陥りやすい。トランスジェンダーの白人女性である自分が最も多く受ける仕打ちは、あからさまな敵視やさげすみ、または脅し文句でもない。黙殺だ。

近しい人や知らない人を含めて周りにたくさんの人がいるのに、独自のものの考え方やその考えに基づく個性を理解してもらえない、そういう感覚である。この世界は、自分の存在すら認めてくれず、ましてや温かく迎え入れてくれることなどないのだ。

そう気づかされるのは暴力を受けるに等しい。同じような人たちは、控えめに見積もっても米国全体の約0.6パーセント、フィラデルフィア市の人口と同じくらいいて、少ないながらも無視できない割合を占めているというのに──。

これは米国に限った問題ではない。トランスジェンダーの人たちは世界中にいるが、どこにいてもほぼ例外なく排除され、無視されているように思う。米国より環境がよい国もあれば悪い国もあるが、この国を含めてとびきりいいところなど、どこにもない。

それは“存在を告げる鏡”

ヴィジュアルノヴェル「last day of spring」は、日本に活動拠点を置き「LGBT+に優しいカワイイ系ゲーム」を専門とするnpckcが開発した作品だ。前編に当たる「one night, hot springs」と同じく、トランスジェンダーのハルという日本人を主人公に、ハルが心の安定と自分らしさをつかみ取ろうと奮闘する日々を描いている。

「存在しない自分」について描いたゲームとも言えるだろう。実際にプレイして感じたのは、何度も経験したことのある胸の痛みだった。

ひとつの概念として何かが表現されるとき、そこには余計な感情が加わるものだ。社会の片隅に追いやられた人たちが描かれるとき、その人たちの考え方や優れた能力はあらゆる方法で否定されがちだし、実際そうなることが多かった。

 

しかし本質的に言えば、表現とは何だろうか。それは、世間が何と言おうと「あなたは確かに存在している」と告げる鏡だ。人が経験することは現実に起きていることであり、誰かの経験を描けばそれは芸術作品になる。経験はときに苦しみを伴うが、圧倒的なパワーをもつ重要なものを表すこともできるのだ。

last day of springはこのことを、シンプルかつ魅力たっぷりなやり方で示してくれる。このゲームは、ハルの友人エリカの視点で語られていく。いろいろな人たちと会話しながら、簡単なせりふを選択していくことで、ゲームは進む。

ハルの誕生日に何か特別なことをしようと考えたエリカは、ハルを温泉に誘うことにするが、うまくいかない。訪問先の温泉施設がトランスジェンダーを受け入れてくれないからだ。エリカは親友を何とかして喜ばせようとする一方で、シスジェンダー[編註:誕生時に診断された性別と性自認が一致する人]である自分が特権を享受していることに気づかされるのだった。

トランスジェンダーへの真摯なまなざし

このゲームのキャラクターたちは、それぞれ巧みに描かれている。ハルが経験するさまざまな出来事を漏らさずに描き、エリカの視点を通してふたりの間に芽生えた共感が膨らんでいく。

ハルは、エリカにたびたび促されて自らの経験を語る。ゲームが進むにつれて、エリカの考え方もプレイヤーの考え方もどんどんリセットされ、ハルのリアルな体験をより身近なものとして捉えていくことになるのだ。

ハルは心配ばかりしている自信なさげな主人公に見える。だが、トランスジェンダーは弱くて傷つきやすい存在であると、押しつけるようには描かれていない。むしろこのゲームには、自分を疎外する社会の「常識」と闘いながら、安らげる居場所を探すハルに向けられた真摯なまなざしが感じられた。

 

ハルの経験するさまざまな出来事には真実味がある。その心は揺れ動きやすく、世の中に対してフラストレーションを抱えていた。だからこそ、この主人公の存在は共感を呼ぶのだろう。

このゲームを勧める理由

こうしたゲームを紹介する記事は、ともすると「まさに日本ならではの視点でつくられた、トランスジェンダー肯定派のゲーム」といった、もの珍しさを強調するトーンに陥りがちだろう。

欧米におけるLGBTQ+のコミュニティには、型にはめられた欧米優越思想がはびこっている。クィアたちをいちばんよく理解しているのは、ほかでもない米国と西欧におけるサブカルチャーの世界だ、という思い込みだ。「よそ」でつくられたものなどは規格外の製品に違いない、というわけである。

しかし、本作や同じく日本人ゲームクリエイターのSWERYが手がけた「The MISSING──J.J.マクフィールドと追憶島──」のように、積極的にLGBTQ+を応援するような内容のゲームは日本でも存在感を増してきた。とはいえ、こうした動きは日本であれ欧米であれゲーム業界の表舞台に出ることはなく、グローバルな規模で見ればさらに動きは鈍い。これではさすがの米国も「LGBTQ+を支持する先進国」を気どることはできまい。

last day of springをはじめとするこの種のゲームには、リアリティを感じている。まるで自分の日常がヴィジュアル化されているように思えるのだ。ほかの人にもお勧めしたいが、それはトランスジェンダーの日常を身近に感じてもらえそうだからでもなければ、単にトランスジェンダーの人たちが気に入りそうなゲームだからでもなかった。

ゲームが共感を育んでくれるなどとは思っていない。当事者でない人たちに、社会の片隅から見る眺めを教えようとしても無理だ。見せ方を工夫したくらいで、誰かを共感させることなどできるはずがない。代わりに確信をもって言えるのは、トランスジェンダーの人たちもこの社会の一員であり、こうした人たちの経験はすべて人としての経験であるということだ。

人として存在することの意味を正確に理解するには、トランスジェンダーや、社会から疎外された人たちのさまざまな経験が知られる必要がある。last day of springを勧める理由は、自分も含めてトランスジェンダーを理解してくれているゲームだからであり、そしてほかの人たちにもそうあってほしいと願っているからだ。